折れぬ翼を




「祐太、あ〜ん」

「あ〜ん」

膝の上に乗せた我が子の口の中を真剣な表情で覗き込んでいるのは、
京の町筋で鬼神と恐れられる一番隊組長だ。

「う〜〜〜ん・・・ぐらぐらしてますねぇ」

「あ〜〜〜ん」

「痛いですか?」

「あ〜〜〜ぁ?」

口を開けているために返事が出来ず、祐太がふるふると首を振った。

「あ、ごめんなさい。もう良いですよ」

慌てて総司が祐太の口の中から指を抜いて、口を閉じるようにと促す。

「ちちうえっ、祐太の歯、ぬけるの?」

「そうですね。でも茂が最初に抜けたのは、ついこのあいだでしたよねぇ」

原田の長子である茂は祐太より一才年上だ。
それで考えれば少し早い気がしないでもないが、虫食いという気配も無い。

「祐太は成長が早いのかもしれませんね」

我が子の頭を撫でながら総司が微笑んだ。


――― ぱたぱたぱた

「総司様っ! まだそんな事をなさっていらっしゃったんですか!
 いい加減お出かけになってください!」

母になろうと変わらない威勢の良さでセイが急き立てる。

「はいはい、わかってますよ」

「ははうえっ! 祐太の歯、ぐらぐらなの。茂みたいに、いたくなる?」


茂の前歯がぐらぐらしているのを見た原田が、半端に放っておくのも気持ちが悪かろうと、
糸をかけて無理矢理引き抜いた。
まだ時期的に早かったのか激しい痛みに茂が大泣きし、予想以上の出血に
動転したまさに呼ばれたセイもオロオロしたのだった。
その光景がまざまざと記憶に甦る祐太の中に、歯が抜けるのは怖ろしい事だと
刷り込まれてしまったのも仕方が無い。


「痛くなりませんよ」

ぽんぽん、と祐太の頭の上で手を弾ませた総司が笑った。

「私も母上も、原田さんのように無理矢理抜いたりしませんから、大丈夫です」

「ほんと?」

「ええ、本当です。ただし!」

祐太の瞳をジッと覗き込んだ。

「もしもポロリと抜けた時には、絶対に父上に見せてくださいね。
 どこかに放ってきてはいけませんよ! 良いですね!」

滅多に見せない気合で、息子に約束を迫る男の襟首が掴み上げられた。

「はいはい、お仕事お仕事。祐太、お見送りしましょうね」

無理矢理立たせた総司に大小を押しつけたセイが、息子を促して玄関へと向かう。

「ちょっと、セイ! これは大事な事なんですよ! 祐太の最初の・・・」

「はいはい、行ってらっしゃいませ!」

慌てて自分達を追ってきた総司を玄関から押し出し、セイが祐太に笑いかけた。

「毎日毎日これなんだから、困った父上ですね」

「ねぇ〜」

これが沖田家の日常なのだった。






西山に近づいた日輪が道の上に長い影を形作る中、家の前にぽつりと佇む姿があった。

「何をしてるんです?」

背後からかけられた声に、華奢な影がびくりと振り返る。

「あっ、総司様、お帰りなさいませ」

「はい、ただいま戻りました」

総司の帰宅時間はまちまちだ。
そんな自分を待っていたわけではないだろうと、セイが見ていた方向を見やると
小さな影が視界に入った。

「あれ? あの子は・・・」

「マツさんが預かっている太吉です」

「ああ・・・こないだの火事の・・・」

隣家のマツが困った時はお互い様だと一人の子供を預かっている事は、
セイから聞いて総司も知っていた。



数日前にこの家から筋三つ向こうの長屋から火が出た。
紙と木でできた町家は火に弱い。
屯所から近い事もあり、総司の家にも緊急時に備えて隊からの応援が駆けつけ、
周囲の家々の屋根に水をかけて回ったのだった。

幸い犠牲者が出るほどの大火とはならなかったが、それでも一区画の家々が燃え落ち、
その中に太吉の家も含まれていた。
金細工の職人だった父は、煤と混じって使い物にならなくなった高価な金板や
持ち出しきれなかった道具の類を再び調達しようと、得意先に頭を下げて歩いており、
母は幼い弟を背負い、工房としても使える新たな住まいを探そうと
ツテを辿って駆け回っている。

十歳(とお)にも満たない自分では父と母の助けになれないと承知しているのか、
預けられたマツの家で太吉は大人しく二親の帰りを待っている。
賢い子らしく我侭を言う事など無いが、すっかり表情が失われ、マツの気遣いに
強張った笑みを無理に浮かべようとするのが痛々しいと聞いていた。

その少年が道の端に立って、ぼんやりと目の前の風景を眺めている。


「あの子の瞳に・・・この町は、どう映っているのでしょうか・・・」

ぽつり、とセイが呟いた。

太吉が見ている家々のずぅっと向こうには、数日前まで確かに彼らの住処があったのだ。
父が仕事をし、母が弟をあやしながら温かな食事を作り、太吉が寺子屋に通う。
笑ったり、小さな諍いがあったりする、当たり前の日常。
今も走っていけば変わらぬソレが待っているかのように、連なる家々が思わせる。
けれどそんなつつましく穏やかな暮らしは、圧倒的な力で引き裂かれてしまった。

セイの脳裏に、父と兄を失った自分の眼前にあった、色彩の無い虚ろな風景が甦る。


「あの子には・・・」

「普通の町並が見えているはずですよ」

苦しげなセイの言葉を、総司の声が遮った。

「総司様?」

「確かに自分達の家は失われたでしょう。けれど町は何も変わらない。全てが壊れ、
 失われたわけではない。手を伸ばせば、助けの手を差し伸べてくれる人もいる」

唐突に家族を奪われた経験を持つセイが太吉に同調する気持ちは、
総司にも理解できる。
けれどセイも太吉もひとりぼっちではない。
同じ悲嘆を感じる事ができなくても、痛みが癒えるまで寄り添ってくれたり、
そこから引き上げようと手を伸ばしてくれる人がいたのだから。

だからこそ、セイは現在ここにいる。
まして家族のいる太吉だ、新たに歩み出さないはずがない。

その証拠に。


わんわんと童の泣き声が響く。
道の先から正一に手を引かれ、大泣きする祐太が歩いてきた。
一時絶望に沈みながらも、強くしなやかに立ち上がった少年の姿を目にして
総司の頬が綻んだ。

「あそこにも生きた証がいましたね。女子なら貴女。男児なら正一。
 どれほどの悲嘆があろうと、人は強く生きていけるものです。
 きっと太吉も同じでしょう」

先ほど町家を眺めていた少年の目の中には絶望など無かった。
変わらぬ町の中に自分達の新たな明日を模索する、強い意思が宿っていたのだ。
それを見定めていた総司が太吉の背中に視線を向けた。

自分に向かって歩いてくる二人に駆け寄った太吉が、正一から何事かを聞き取りながら
小さく頷き、祐太の頭を撫でている。
その姿に総司が微笑んだ。

「自分の痛みよりも他人の痛みを気遣える、幼いながら太吉は強い子です。
 可哀想だと哀れむのは失礼でしょう。私達にできる事は、ただ温かく見守って
 本当に必要な時に、許される範囲で助けの手を差し伸べる事だと思いますよ」

総司がセイに、セイが正一に、そう接してきたように。
そうすれば、いつか心から笑える時も訪れるだろう。


優しく響く総司の言葉を聞きながら滲んだ涙を袖で拭ったセイの瞳に、
太吉の腕が大きく振られるのが見えた。
その手から放たれた何やら小さな白い物が、朱金に染まりつつある空を高々と横切る。

「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

悲鳴と共に顔色を変えた総司が駆け出した。

「え?」

次にセイが視線を向けた先では、総司がぎゅうぎゅうと太吉の襟元を締め上げている。
慌てて駆け寄ったセイが、必死に止めにかかっている正一を助けるように
総司の腕を叩いた。

「な、何をなさってるんですかっ、総司様っ!」

「だって!!」

ほんの寸前まで大人の男の余裕に満ちて、子供達を見守っていたはずの男が涙目だ。

「だって! 祐太の最初の歯ですよっ! 最初に抜けた歯は、私が高く高く
 投げてあげようと思っていたのにっ!!」


子供の歯が抜けた時、下の歯であれば空高く、上の歯ならば地に向かって投げると
生え変わった歯が強く丈夫になるという伝え話。
それを信じて楽しみにしていた男の願いは、転んだ拍子に歯が抜けてしまって
痛い痛いと泣く祐太の気をそらそうとした太吉によって打ち砕かれた。

「あなたってば、なっっっんて事をしてくれたんですかっ!」

再び太吉の襟首を掴もうとした男の後頭部に拳が振り下ろされた。

――― ごんっ!

「何てこと・・・は総司様の方ですっ! 温かく見守るって話はどこにいったんですか?
 情けないったら、もう・・・」

「っっっっっ! だっ、だって!」

「だってじゃありませんっ! いいから、もう! 帰りますよ! 太吉、ごめんね。
 きっちり叱っておくからね。正一、ごめん。後は任せるね」

「ん、ええで」

付き合いの長い正一が呆れ混じりの苦笑を零す横で、太吉が眼を瞬いている。
そのふたりに軽く頭を下げたセイが総司の耳をつかんで歩き出した。

「い、痛っ! セイ、セイッ! 離して下さい! 祐太の歯を捜してきますっ!
 もう一度私が投げ直さないとっ!」

「いりませんっ! 太吉が充分に高く投げてくれたじゃないですか!」

「で、でもっ!」

「でも、じゃありませんっ!」

「セイ〜」



「難儀やなぁ、おセイはんも・・・」

ずりずりと遠ざかる男の姿から眼を離した正一が、自分の着物にしがみついている
祐太の頭を軽く撫でた。

「可愛い我が子を置いていくんやからなぁ・・・」

二親の言い争い(常にセイの優勢状態)がいつもの事でも、やはり幼子にとっては
怯えの対象となる。
それを察している正一がしゃがみこみ、目線を祐太に合わせてにっこり笑った。

「おセイはんが沖田はんの仕置きを済ませた頃、一緒に帰ろな」

祐太がこくりと頷くのと同時に、太吉がぽつりと呟いた。

「沖田・・・はん、やんなぁ」

「ああ」

正一が小さく頷いた。

「剣を取れば怖いもの無しの、新選組の鬼神・・・やんなぁ・・・」

「ああ。“剣を取れば”・・・やな」

「ぶっ、ぶぶぶっっっ!!」

ゆるゆると祐太の頭を撫でながらの正一の返答に、太吉が吹き出した。

剣を取れば怖いもの無し、つまりは剣を持たねば妻に弱く我が子に甘い
ただの男だという事だ。
京の町中で多大な恐れを持って囁かれる沖田という男の真の姿は、
どうにも情けなく、あまりにも普通の男だった。

「あっはは、あははははっ!」

火事からこっち、心から笑う事など無かった少年が声を上げて笑っている。
それをきょとんと見上げる祐太の頭を撫でたまま、正一も小さく笑った。



どれほどの悲しみがあろうとも、生きていれば笑う時も訪れる。

本人が意識してなかろうと、凍りついた少年の心に笑みを甦らせた殊勲者が
その夜、部屋から追い出されて冷たい廊下で夜を過ごした男だった事を
知る者はいなかった。